卒業生より

こちらのページでは卒業生の方々よりいただきましたお話をご紹介させていただきます。
~第二弾~

随想「練習って苦しいね」
               
 
名誉会長 近藤師昭
 

懐かしい青春時代、陸上競技部の活動が昨日の様に思い出されます。
近頃、同期の皆様と度々集まることがあり、校庭の隅の方で紀谷君と黙々と走っていたのを覚えていて、必ず全員が言うことに「何が面白くて走っていたのか?」で、二人で笑って答えるのは、「これがあったから、人生を楽しく走れたのだよ」である。
以前、日本経済新聞の交遊抄に原稿を依頼されたとき一番に思い浮かんだのは、苦しい練習に耐えた陸上競技部の仲間ことでした。
今では考えられないでしょうが、真夏に水分補給もせずに走り、終えると体中に塩が吹き出、それを舐めて水を飲みホッとしたこと、駅伝のメンバーを他の運動部に協力をお願いして揃えた事等々で、部員全部が正選手であると言う有難い時代でもありました。
陸上競技と言うと個人プレーだけのように考える方が多いと思いますが、駅伝でも、リレーでも仲間に如何に引き継ぐかが重要で、自分の我侭は許されません。
このことは、即ち、後工程を考え、最善を尽くすべきであると言うことで、これを身に付けたことが、社会人としての長い人生を過ごすうえで役に立ったと思います。
1956年、嵐の中での綱島駅伝、隅田川で慶応大学のボートが沈没したこの日、綱島から走り始めましたが、今の新川崎駅近く鹿島田跨線橋の上、強風雨で後ろに戻されながらやっとのことで走り終え、たすきを渡したこと等、苦しいことが今では楽しい想い出になっております。
現役の皆様、時代が変化しているとは言うものの、良き指導者に恵まれた君達を見る時、この素晴らしい環境に、感謝の気持ちを大切にして、落伍することなく卒業まで一生懸命練習・そして勉強に取り組むことを期待します。
 沢山の頼もしい後輩が、元気に飛躍され全国大会の応援に行けることを楽しみに!
(第9回卒 社団法人日本年金数理人会 相談役・元会長、社団法人 年金綜合研究所 常務理事)

~第一弾~
 

随想「走ったこと」
                                           名誉会長 紀谷文樹
 

 58年前に高校へ進学するとともに、現名誉会長の近藤君と一緒に陸上競技部に入部した。できてまもなかった部は、3年生6~7名と我々1年生2名であった。予選を勝ち抜かなければならない今とは違って、誰でも参加できたので、市や県の大会、駅伝などにも参加し、遅いながらも楽しく、かつ苦しい経験をした。73歳の現在でもトレッキングなどに出かけて少しは歩けるのも、あの頃の基礎体力づくりのおかげと考えている。
 当時は運動生理学が未発達だったので、試合の前日から水分を控えるように言われて、ふらふらになって走っていた。今考えると、ずいぶん無茶な練習や競技をしていたものであるが、頑張るという気持ちは培われたと思われる。
 グランドがわるく石だらけで、ほかの部活のボールを避けながら走るのは大変だった。夏休みにはグランドの隅の笹藪をほりかえして整備し、3コース30メートルくらいのスタートダッシュの練習コースをつくった。
 当時は一般道を自由に走ることもできたので、浜松町、保土ヶ谷、井土ヶ谷、南太田をまわる11キロコースを走ったり、和田町の岡野公園までスパイクを持って走って行き、公園のトラックで練習をしたり、三春台の正門から久保山までの登り坂を市電と競争して楽しんだりした。
 ともあれマラソンは人生と同じだと開眼したことが、その後の生涯に大変役立った。登り坂あり、下り坂あり、まわりとの駆け引きあり、ペース配分やコース取りを気にし、自分がつらいときは相手もつらいことを考えて頑張り、ひたすらゴールを目指す、激走の人生であったと述懐している。
 40代半ばまで研究室の学生を相手に走り、結構負けてはいなかったが、今ではもっぱらテレビ観戦をしている。それでも昔の自分が思い出され、走者の気持ちも伝わってきて、経験のない人に比べると随分と違った見方をしているようである。百聞は一見にしかずというところであろうか。
 現役諸君の健闘を心から願っている。

 

                               (9回卒 現 東京工業大学 名誉教授)